※らあめん花月嵐オリジナル【幕末維新物語(ストーリー)】は、
フィクションになります。
1600年(慶長5年)、『関ヶ原のらあめんバトル』で勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康。
「美味いらあめん」の持つ“人々の心を動かす力”に目をつけた家康公は、晩年、それを活かした政策を実行した。
さらに、江戸幕府の力を磐石にし、有力な外様諸大名の力を削ぐために、
“幕府お墨付きの味噌”を使ったらあめん以外の調理、開発を禁じ、自由にらあめんを作ることを許さなかった。
そして、日本中の美味い食材や、諸藩の優秀な『らあめん職人』を江戸に集めることを目的とした、参勤交代は、
『らあめん大名行列』とも呼ばれ、『美味いらあめんの力』を独占するための、江戸幕府最大の政策となっていた。
時は流れ、江戸時代後期… 幕府の力は未だ衰えず、一橋慶喜(後の徳川慶喜)を中心に、らあめん文化の独占は続いた。
諸藩の有望な、らあめん職人を志す者たちも、江戸を目指していた…。
この頃、坂本龍馬も、らあめん修行の為に度々江戸を訪れた。
1854年(安政元年)
日本のらあめん文化に魅せられた、ペリー提督率いる米国の黒船が浦賀に襲来。
「美味いらあめんの調理法」の開示要求と、らあめん食材の米国側への提供を迫ってきた…。
幕府側はやむなくこれを受け入れ、「美味いらあめんの調理法」を渡すことになってしまう。
この事件をきっかけに、龍馬をはじめ、諸藩の志士たちが、徳川独占による「日本のらあめん文化のあり方」に強い疑念を持つようになる・・・。
その頃、桂小五郎・高杉晋作らが率いる「長州藩」は、秘密裏に『独自の美味いらあめん』を開発し、そのらあめんの力で“閉鎖的な幕府による味噌らあめん文化”を打ち倒そうとしていた。
しかし、その長州藩の動きを事前に察知していた幕府は、西郷隆盛・大久保一蔵率いる「薩摩藩」に長州藩のらあめんを封じ込めるように命じた。
長州藩は、密かに京都にある長州藩邸に集めていた「独自のらあめん調理法」や、「独自の調理器具」など、多くのものを薩摩藩の襲撃により没収されてしまう。
これにより、長州藩と薩摩藩の間に、決定的な溝が生まれることになった。
“日本のらあめん文化の行く末”に疑問を持つようになった龍馬は、海外の食文化に精通していると噂の幕府の役人、勝海舟に会うことになる。勝は、このままでは海外に日本のらあめん文化をめちゃくちゃにされてしまうこと、それを防ぐためには国内で争っている場合ではないと龍馬に説く。
「龍馬よ、このまま長州のらあめんが滅ぼされると、益々日本のらあめん文化は発展できなくなっちまう。
これからは、幕府だ、藩だなんて言ってねぇで、同じ日本人として、『らあめんを愛するもの』として手を取り合って、日本のらあめん文化を世界に向けて発信・発展させて行かなくちゃならねえんだ!!」
幕府や藩など、小さいことだと言う勝の言葉に感銘を受けた龍馬は、勝に弟子入りすることになる。
さらに、江戸の「らあめん思想家」を代表する、横井小楠らに学び、知見を広めた龍馬は、同郷の中岡慎太郎と共に決意する!!!
「日本のらあめんの成長の為には、長州のらあめんを救い、
そして薩摩と長州に『薩長らあめん同盟』を組ませるがよ!!
行くぜよ、中岡!!!」
1865年(元治2年)、龍馬たちは、「薩長らあめん同盟」を提案するための会談を下関で行えるように調整した。この会談を成功させるために、龍馬は桂小五郎を、中岡は西郷隆盛を説得し、下関会談の約束をとりつけた。
そして会談の当日、桂をはじめとする長州藩士は、薩摩藩に対する怨恨を一旦忘れ、西郷たちを待っていたが、いくら待てども西郷は現れない。
痺れを切らした頃、飛び込んできたのは中岡慎太郎ただ一人であった…。
西郷は中岡と一緒に移動していたが、一人、なぜか下関を素通りして京に向かってしまったという。
桂は、怒りと悲しみに満ち、龍馬と中岡を追い返してしまう。
桂は叫んだ!!
「薩摩と同盟を組むなど初めから無理な話だったんだ!!」