永禄10年(1567年)誕生。幼名は『梵天丸(ぼんてんまる)』と言いました。5歳の時に天然痘にかかり、一命は取り留めるものの右目を失明。11歳で元服し『藤次郎政宗』と名乗り、18歳で家督相続しますが、以降、家族内の不和が生じたものの、わずか6年足らずで東北の大部分をまとめ上げ天下統一を志しました。しかし、時すでに遅し。天下統一は豊臣秀吉によってなされる一歩手前で、天下人秀吉への臣従。そして江戸時代では徳川家に仕えることとなりました。仙台城の築城、そして城下町を整備するなどして、藩祖として仙台藩62万石の礎を築き上げました。
平和な江戸時代へと変遷を迎えるなか、政宗は料理の研究に勤しんでいたそうです。元々は戦場での兵糧をきっかけにはじめた料理でしたが、自ら腕を振るい客人や仲間達にも振る舞ったそうです。『馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である。』とは、政宗が実際に残した言葉です。事実、二代目将軍秀忠、三代目将軍家光をもてなすために、自らが奔走した話は有名な話として残っています。仙台名物の「ずんだ餅」を政宗が考案したという説もあるそうです。
幼少時は、右目を失明し後ろ向きだった政宗。それを救ったのが今日でいう家庭教師役となった一人の僧侶でした。彼から様々な教えを受けることで、自らの逆境に打ち勝ち、武芸以外にも漢詩や書にも通じて、今日で言う、まさにインテリな武将へと成長したそうです。そして驚くべきは、その筆まめさ。部下に書かせる武将が多くいた中、政宗自ら筆を取って手紙を書いたそうです。その数、なんと3,000通にも及ぶとか。現存するだけで1,000通以上の手紙が残されているそうです。
伊達政宗と言えば、今日でいうところの、まさにファッション・リーダー的な存在でした。ド派手な紫の陣羽織や、漆黒で渋く決まった甲冑はまさに政宗のセンスの良さを実感せずにはいられません。庶民からも広く憧憬の眼差しで見られていた政宗は、まさに「伊達男」を地で行く戦国武将でした。
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戦地における食料(兵糧)の研究をきっかけに料理に魅せられるようになったと言われる戦国武将伊達政宗。本章では、政宗と「仙台味噌」とのエピソードについて紹介しましょう。
文禄2年(1593年)、時の天下人であった豊臣秀吉の命のもと朝鮮へと出向いた政宗であったが、夏場のため、他の武将達が各々持参した味噌が劣化するなか、政宗の持って来た味噌は、変わらずに美味しく頂けたとされ、他の武将達にも喜ばれたという。一説によると、それが「仙台味噌」の原型となった味噌であるとも言われています。
伊達政宗は、仙台城の城下に御塩味蔵(おえんそぐら)という味噌醸造所を設けて味噌を造らせた。以降、伊達藩では味噌づくりが盛んになり、江戸時代後期には、江戸にある仙台藩の下屋敷でつくられた味噌が江戸市中で「美味しい」と話題になったとのこと。江戸の庶民にも親しまれた、それが「仙台味噌」なのです。
『戦国武将らあめん伊達正宗』本編
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